「老成都」の趣を求めて屋台街を歩く


手前に見えるのはサンマ。これを焼いて唐辛子をふって食べる

錦里の屋台街は人でごった返していた


成都は『三国志』好きの人間にとってはあこがれの街だ。中でも諸葛孔明を祀った武侯祠は「聖地」である・・・・・・という思いが強かった分、実際に見た諸葛孔明劉備に似せた像にがっかりした。これならいっそ川本喜八郎の人形の方がよかったのでは? そんな盛り下がった気分が一転したのは、ここに隣接している「錦里」に入った瞬間だった。

錦里(Jin li)は、「三国志」時代以来、成都で最も賑わった商業の中心地だった。そんな「老成都(古き良き成都)」の姿をよみがえらせようと、2001年から3年をかけて清時代の旅館や茶館、酒楼などを再現した街づくりが行われた。いわば中国版「江戸村」だ。

正門から続く石畳の両側には、レストランやバー、お土産屋などが並ぶ。その中で、一番の賑わいを見せていたのが、錦里名物の「屋台街」だ。ここには伝統的なお菓子やお餅、串焼きなどを売る店がずらりと軒を並べ、若い男女や観光客でごった返していた。そんな彼らが好んで食べていたのが「うずらの丸焼き」だ。四川美人がうずらにかぶりつき姿はなかなかの圧巻だった。

成都には「小吃」と呼ばれる屋台が随所にあり、道行く人たちが小腹を満たすために立ち寄り、買い食いをする。この「小吃文化」が成都の特色で、あくせく働かず、のんびり楽しくがモットーの成都人の憩いの場所として、また町の食堂というコンセプトで作ったのが「錦里」といえるだろう。

この錦里の近くには、古い町並みを保存している地区もある。錦里が架空の街を”再現”したテーマパーク型の再開発地区なのに対し、こちらの「寛窄巷子(KuanZhai Alley)は、明清時代の伝統的建築様式の四合院や西洋風の建物があった一画を街並み保存した歴史文化保護区だ。寛巷子、窄巷子、井巷子という3つの通りの間に60〜70軒ほどの商業施設が並んでおり、中庭のある建物を改装したレストランやカフェは大人の遊び場にぴったりだ。

光都市として人気の成都だけに、こうした遊び場が各所に作られている。三国志気分に浸るにはいささか物足りなかったが、ぶらぶら歩きには最適な町である。

水の都・蘇州の新旧の水路を巡る

蘇州は水の都として知られている。紀元前6世紀、呉王・闔閭がこの地に都城を築き、運河で市街を囲み、水路を縦横に走らせたことが始まりだ。

呉と言えば三国志の呉の方が有名だが、この呉国はそれより800年ほど前にさかのぼる。呉の闔閭は、今、テレビで放映されている『孫子列伝』という中国歴史ドラマにも登場するが、いわゆる酒色にふける凡愚の王だ。それがたまたま孫子と言う軍事の天才を登用したことがきっかけで、戦国の世に覇を競うことができた「幸運の持ち主」として描かれている。

蘇州の旧市街に出ると、市内のあちこちに池を配した庭園が点在し、観光名所になっている。しかし、正直、中国四大名園と言われる「留園」でさえ日本の回遊式庭園と比べると、いささか物足りない。むしろ、山塘街(写真上)などの水路沿いの方が趣があり、散策には向いている。

山塘街は、唐の詩人・白居易が蘇州の知事として赴任した時、水路が埋まっているのを見てこの地区を開削し、灌漑と水上交通の改善に努めたことに由来する。以来、この水路一帯は一大商業地区に発展し、またその景観の見事さもあって文人墨客にも愛されたそうだ。今も観光地として整備されたため、昔ながらの水郷の風情を味わえる。

水路と言えばもうひとつ、現代中国を象徴する新しい水路が市の東部にできている(写真下)。旧市街を抜け、1時間ほどバスに揺られた先に、コンベンションセンターを核にした水上公園があり、その周囲にはオフィスビルや高層マンションが立ち並んでいる。さながら千葉の幕張を思わせる大規模都市開発の現場だ。この商業施設の核となる久光百貨店の横に、現代的な水路ができていた。

ここは久光百貨店をキーテナントにした大型ショッピングモールだ。向かい側にはレストランやファストフードなどの飲食街やブティックなどが並び、この間に挟まれて、おしゃれな水路が作られている。モールはまだできたばかりのため、休日にもかかわらずほとんど人を見かけなかったが、3〜5年後、周囲のマンションが埋まる頃には新たな観光名所になっているはずだ。

時代を超えてつながる2つの水路。蘇州は、今でも水の都であり続けようとしている。

杭州・西湖畔でソメイヨシノを詠む

杭州之桜

盛華大輪如満桜
百花斉放中国城
春日訪杭州見桜
正開華日本同時
我望双桜成亜樹

縁あって、この春、中国各地を旅してきた。実は中国に来たのは20年ぶりなだけに、経済成長の続く今の中国のあまりの変わりように驚くことしきりだった。

杭州を訪れたのは、ちょうど桜が咲き始めた4月初め。「西湖十景」と言われるこの湖周辺の景観の素晴らしさに魅了され、ひがな1日、春の日差しの中で時を過ごしてきた。

杭州の桜はよく見ると日本のソメイヨシノのようだ。調べてみたら、2004年にANA杭州に就航したのを機に、日本から桜を持ち込み、植樹したからという。それにしても、まさか杭州で日本の桜に出会えるとは驚きだった。早速、ひとつひねってみたのが冒頭の漢詩だ。

そもそも杭州は秦の始皇帝が行政府を置いたことに端を発する。のちに北京との間に運河がつながったことで江南地区の交易の中心地となる。その後、呉越国、南宋の首都として繁栄の時代を迎える。その面影は西湖周辺に残っている。

古の残影とともに、杭州を有名にしたものが料理とお茶だ。西湖を渡る散歩道「蘇堤」に名が残る蘇東坡は、詩人としても有名だが、実は大のグルメで、豚の角煮「東坡肉(トンポーロー)」は、彼の名前から取ったもの。こんな話がある。

蘇東坡は、政争のあおりで左遷され、杭州の太守として赴任。当時すでに53歳の高齢のため、もはや中央への復帰はないとあきらめ、西湖の浚渫工事と堤防作りを行なうなど、この地のために尽くした。おかげでその年は大豊作となり、住民たちは感謝をこめて豚を丸ごと1匹と紹興酒のカメを贈ったという。これを持ち帰った蘇東坡は、自分の料理人に命じて紹興酒で豚を煮込み、これを住民に振る舞ったことから「東坡肉」と呼ばれるようになった(譚璐美『中華料理四千年』より)。

蘇東坡とともに、杭州料理を有名にした人物が清の乾隆帝だそうだ。彼は西湖の景観とともに杭州料理を気に入り、何度もこの地を訪れては西湖の淡白な魚料理や東坡肉を食し、ついにはお気に入りの料理人を宮中まで連れて行ったという。

そしてもうひとつの名物が「龍井(ロンジン)茶」。龍井とは、龍の棲みかの意味で、西湖三大名泉で淹れるこのお茶は、西湖の由来となった美女・西施を思わせる気品のある風味がとてもよい。ちょうど新茶が出ていたこともあって購入した。いささか値段は高いが、お土産には最適だ。

秩父34カ所めぐり、結願しました!


久しぶりに「巡礼レポート」をお送りします。と言うのも、この週末、ついに秩父34カ寺観音巡礼の「結願」を迎えたからです。

昨年のGWからカミさんと歩き始めて、通うこと6度で、ようやく成就した成果です。
日程を簡単に紹介すると、

●平成21年5月4日 1-5番、10-11番
   同 5月5日 6-9番、12-17番
●平成21年6月28日 18-24番
●平成21年7月26日 25-30番
●平成21年9月21日 31番
●平成21年11月23日 32番
●平成22年4月11日 33-34番


 1番から30番までは秩父市内周辺にあるため、なんとか予想外に早く回れました。特に道中半分になる17番まではわずか1泊2日。早い人なら1日でめぐれる距離です。大変なのは31番から先が秩父山中の各地に点在しているので、1日に1カ所回るのがやっと。それでも、全工程平均5日程度で「結願」するというのが標準のようです。


西国や坂東に比べると、秩父は地域集中型なのでお寺が密集しており、巡礼初心者が回るには最適なところです。都心に近いこともあり、江戸時代には女性が気軽に行ける巡礼地として人気を呼んだそうです。


そもそも平安時代に貴族たちの間で広がった観音信仰から「西国33カ所巡礼」が創案され、鎌倉時代になってこれが武家の間にも広がり、源頼朝が関東にも観音信仰を広げようと「坂東33カ所巡礼」を設けました。秩父巡礼は、公家、武家と来て、さらに民衆レベルに観音信仰が広がった結果、生まれたものと言えるでしょう。その意味で、江戸時代の庶民のエンターテインメントであり、お伊勢参りに比べて、手軽で身近という、「安近短」レジャーでもありました。


実際に回ってみてのお勧めコースですが、
1番〜3番は、ハイキングにぴったりなので、おにぎり持参で行くのがいいですね。
8番の西善寺には樹齢600年のコミネモミジがあり、紅葉のシーズンがベストのようですが、残念ながら時期はずれでした。
●川沿いの20番岩之上堂は涼しく、また蓮の開花に間に合った25番の久昌寺から26番の岩井堂、28番の橋立堂は夏向きのコース。
29番〜30番は、桜の時期に途中の清雲寺のしだれ桜(写真参照)に立ち寄りたいところ
32番の法性寺は、切り立った崖の上を歩き、山頂の巨岩の上にある観音と大日如来を参るというスリリングな場所で、ここで食べたおにぎりは、秩父山中の絶景を眺めながら、気が抜けない楽しいランチでした
●そして、最後の33番から34番の道は、まさに「巡礼古道」で、江戸時代の巡礼気分に浸れます。


本来なら、西国・坂東と回り、秩父を回って100観音達成! となるのでしょうが、西国は遠方でもあり、時間をかけて回る予定で、この秩父結願の次は坂東を回ることになるでしょう。


ちなみに、最初のころは夫婦ともに、1日2万歩以上の「行軍」に、翌日は足が悲鳴をあげていましたが、昨年末以来、体力強化に取り組んだおかげで、数か月前とは比較できないほどの健脚(?)になり、「巡礼体質」に改善していました。巡礼ウォーキングで健康になろう!  が、これからのテーマですかね。

救国の英雄・李舜臣が見た海へ。(後編)


「一揮掃討 血染山河」

李舜臣の戦いの跡をたどろうと思ったのは、韓国時代劇「不滅の李舜臣」を見たのがきっかけだった。22戦して22勝、不敗の名将と称えられた彼は、負ける戦をしなかったこともあるが、陸上戦で負けまくった朝鮮軍が息を吹き返すきっかけとなり、海を制して救国の英雄となった。制海権を奪われた日本軍は食糧不足に悩まされ、現地調達するために米どころの全羅道に進出したが、義兵の決起にあって苦戦、徐々に撤退に向かった・・・というのがドラマはもちろん、これまでの私の理解だった。しかし、どうも事情が幾分異なる見解を知った。


Wikipedia李舜臣の功績をめぐって激しいやり取りがあったのをご存じの方も多いだろう。今でもその論争(?)の跡が残っていたので、じっくり読んだのだが、韓国びいきの私が読んでも、李将軍を「救国の英雄」と信奉する韓国人の感情的な意見に対し、yasumi氏の冷静な反論に軍配を上げざるを得ない。その一番の解釈の違いが「制海権」問題だ。


あの井沢元彦の「逆説の日本史」でさえ、「日本軍は制海権を失ったことで食糧不足となり・・」としているのに、yasumi氏は「日本軍は制海権を失くしていなかった」と明言している。これを読んで、はたと納得した。確かに、「閑山島の戦い」での惨敗後も、日本水軍は何度も李将軍に苦杯をなめるのだが、実は李将軍は途中で皇帝の命令に従わなかったことを問われて「白衣従軍」(=ただの兵士に降格されること)になり、その代わりに水軍を率いた元均が日本軍に大敗し、朝鮮水軍はほぼ壊滅してしまう。ここから李将軍の奇跡の復活劇となるのだが、この経緯を素直に解釈すれば、日本水軍はむしろ優勢に転じ、少なくとも朝鮮半島南部の右半分の制海権は日本が持っていたのは間違いない。


また、井沢氏によると、日本軍の敗退の原因は、ロシア侵攻の際に、冬将軍に敗れたナポレオンのように、武装軽微のために、朝鮮半島の厳寒によって凍死や飢餓で死んだ兵士が戦闘で死んだものをはるかに上回っていたという。ましてや、先発隊の小西行長宗義智はともに和戦派で、和平の裏交渉をするなど、戦争そのものに否定的だったのだ。


秀吉の朝鮮出兵については、日本と韓国の間にかなりの認識の違いが見える。必要以上に秀吉は悪者にされ、また李将軍は過剰に祀り上げられている・・・。いささか専門的になってくるので、関心のある人は、ぜひ詳細に分析しているYasoshimaさんのHP
http://yasoshima.hp.infoseek.co.jp/index.html#4-6を読まれたらいいだろう。


それにしても、当時の朝鮮王朝にあって、唯一、腐敗(賄賂を取らず、正しい人事を行ったという意味)していなかった役人・軍人が李舜臣と言われ、そのために讒言や中傷が絶えず、挙句に左遷や降格などの災難に見舞われるなど、波乱万丈の人生を送ったという。その点からして、英雄たる資格は十分にあると言えるだろう。


さて、統営市で李将軍に別れを告げ、いよいよ韓国旅行も終わりとなる。ドラマをきっかけに始まった日朝歴史巡礼は、今後も続けるつもりだ。今度はかみさんとソウル−済州島を回る予定。次回の韓国レポートを期待してください。

救国の英雄・李舜臣が見た海へ。(前篇)


釜山から西部方面へバスで2時間ほど走ると、名将・李舜臣(イ・スンシン)の水軍が本拠地とした統営(トンニョン)市に着く。最初に行ったのは市の東側、東湖湾を見下ろす丘の上に、李舜臣の巨大な石像が建つ記念公園だ。ここに屹立する李将軍の姿は凛凛しかった。彼の見ている目の前の海の美しさに、しばし時間を忘れた。


この海の周辺はいわゆる多島海で、ここも含めて、リアス式海岸となる朝鮮半島南岸全域に渡って、数百の島々が浮かんでいる。島々の内側は静かな漁場だが、一歩外に出れば風涛激しい玄界灘へとつながる。そしてこの海域こそ、李舜臣率いる朝鮮水軍と秀吉の朝鮮出兵軍が戦った戦場でもあった。


李舜臣は日本の教科書では名前が出てくる程度の紹介しかされないが、韓国では救国の英雄として知らぬもののない存在だ。ソウル市内にも像があるが、釜山をはじめ、韓国南部には至る所に彼の像や記念碑が建っている。中でも、彼の勇名を轟かせた「閑山大捷」=閑山島(ハンサンド)の戦い、がここを舞台にしたため、戦勝を記念した閑山島に建てられた「制勝堂」に立ち寄るのが観光コースになっている。


ここは歴史のおさらいになるが、秀吉の朝鮮出兵は1592年4月の釜山急襲から始まり95年で休戦する「文禄の役」と、1597年に再開し、秀吉が死去したことで停戦となる98年までの「慶長の役」の2回の「出兵」を指している。日本の歴史では、「出兵」といい、「侵略」と言わないのは、当初の秀吉の構想が「唐入り」、つまり明の侵略が目的で、その途中で、朝鮮に「道を借りる」ために「出兵」したという事情による。もちろん、これは日本側の理屈で、朝鮮側からすれば、当初の交渉が決裂し、実際に武力進出をしてきたのだから、これは侵略だ、となるのは当然だ。実際、二度目の慶長の役は、明らかに「侵略」行為なのだから。


最初の文禄の役は、先陣を切った小西行長軍と第二陣の加藤清正軍が釜山上陸後、あっと言う間にソウルまで制圧。日本軍は鉄砲で武装、片や朝鮮軍は弓矢が主体で、火気と言えば威圧が目的の大砲だけ。陸上戦では圧倒的に日本軍の力が勝った。朝鮮王朝は第14代の宣祖の治世下だが、無能な王様だったこともあり、なんら打つ手もなく、自ら中国国境地区まで逃げて明に助けを請うた。そこで登場するのが李舜臣将軍だ。


陸上戦では日本軍が圧倒していたが、泣き所は軍事物資の調達先である日本との海上ルートだ。制海権を取られたら、日本軍は孤立する・・・そんな、その後の死命を制する分岐点にもなりうる海戦となったのが、この「閑山島の戦い」だといわれている。


ここからは韓国側の記事をもとに解説する。

李将軍は、釜山から西に抜けるルートである閑山島と巨済島(コジェド)の狭い海域を決戦場に設定。おとりを使って日本軍をここに引き込んだ。待ち受ける李軍団は鶴翼の陣を敷いた。陸戦では鶴翼の陣は軍勢が多い敵が少ない相手を囲い込んで殲滅する戦法だが、李軍と日本側・脇坂安治軍との勢力はほぼ五分と五分(90隻対73隻)。果たして戦法上、正しいかは疑問と日本軍は甘く見た。しかし、李軍の軍船は大砲を積み込み、船の破壊・沈没を目的とした。だからこそ、鶴翼の陣で日本軍を囲い込み、両側から大砲で打ちかかったのだ。結果は73隻中、47隻を沈め、12隻を捕獲するという、李軍の大勝利となった・・・。


・・・この旅一番の快晴となったこの日、遊覧船ターミナルから閑山島に渡った。船内は学生グループから中年夫婦や老人と幅広かったが、日本人は私ひとり。釜山でも、慶州でも、観光案内には日本語があったのに、ここではハングルと英語のみ。日本人は来ないのか、それとも日本語の表記はあえてしなかったのか・・・。


大勝利を記念して建てられた「制勝堂」は、李将軍の指令室の置かれた場所であり、韓国人の誇るべき聖地だ。そして、統営市では、今年も第二次世界大戦終戦記念日に、「閑山大捷」の戦勝記念祭が合わせて行われる。つまり、「軍神」李舜臣将軍は、対日本との抗争に勝利したシンボル的存在なのである。

海雲台リゾートで、カンチャンケジャンを満喫する。

慶州から今度はバスで釜山に戻る。市内に着いたのは夕刻だが、この日はリゾート都市として売り出し中の海雲台(ヘウンデ)に泊ることにしていた。ここは「韓国のハワイ」と言われるだけあって、海岸はきれいな砂浜で、夏は海水浴場としても賑わう。海岸沿いには外資系ホテルが林立し、名だたるブランドショップが入ったショッピングセンターに、カジノまである。


これまで貧乏旅行をしてきただけに、いささか場違いな感もあったが、旅の締めくくりとして市内随一のパラダイス・ホテルに連泊することにした(といっても、楽天トラベル経由で、1泊1万1000円だった。ただし、オーシャンビューではなかったが・・・)。さすがに、客室はこれまで泊った中で一番良かった。それに、日本人客が多いらしく、部屋には電圧変換機まで常備されているのは便利だった。


さて、お腹が減った。海に近いなら海鮮料理しかない、と思い、観光案内に広告を出していたカンチャンケジャン(ワタリガニのしょうゆ漬)が有名(?)な海鮮料理店にいくことにした。もちろん、場所はわからないのでホテル前のタクシーに乗る。しかし、「うーん、知らないね、この店。カンチャンケジャンが食べたいの? だったら、いい店知ってるよ」という日本語ぺらぺらの運転手の甘い言葉・・・いかにも怪しそうだ。が、こういう時は騙された方が面白い。裏道を走って10分ほど。道中、やたらと風俗に誘うのだが、そこはしっかり断った(ホントですよ)。ところが、店についてびっくりした。


入口の壁に、なんと朝青龍が写っているじゃないか。


店名は「マサンケジャン」といい、カンチャンケジャンの専門店だ。韓国はだいたい1品料理の店が多いので、カンチャンケジャン専門店といえば、カンチャンケジャンしかない。片言で(相手が、という意味)店主と会話したところでは、朝青龍の友人が韓国人で、この店に案内したらしい。写真には店主も一緒に写っていた。とても人の良さそうなおじさんで、店のおばちゃんたちもとても親切だった。


定食を頼んだら、例のごとくテーブルいっぱいの前菜が並んだ。そして出てきたメインのカンチャンケジャンは、まさにとろけるような美味しさだった。これに、焼酎を2本飲んで、会計は2000円! サービスはもちろん、味も値段も、本当に良心的な店だった。あの怪しい運転手に感謝、感謝。



食後にホテル内のカジノにも顔を出したが、どのテーブルも中国人が占拠しており、日本人らしき客は皆無だった。韓国でも中国マネーが幅を利かせている。日本人はますます肩身が狭くなるばかりだ。生来の博打下手でもあり、何もせずにすごすご退散した。


とまれ、明日はいよいよ最後の目的地・統営。この旅の締めくくりとなる。