頤和園で西太后の往時を偲ぶ

かねて疑問に思っていたのだが、「なぜ日本は宦官を導入しなかったのか」と。アジア、特に中国文化の及んだ朝鮮やベトナムでは宦官が取り入れられたのに、なぜ日本だけが違ったのか。そんな長年の疑問に、ようやく納得できる答えを見出した。

吉林人民出版社が発行する雑誌「日本文学」の李長声・副編集長は、09年に「古代日本が宦官制度を導入しなかった理由」という論文を発表。この論文で、李さんは「日本はさまざまな文化を中国から学んだが、宦官制度は取り入れなかった。この点は尊敬に値する」と評価している。

宦官制度を採り入れなかった理由として、日本には牧畜文化の歴史が希薄な点を挙げている。もともと「去勢」は家畜に対して行うもので、中国にかぎらず、インドやトルコなどの遊牧系民族の間では、家畜に対する去勢は一般的なものだった。李さんは、1900年の義和団事件の際に、8カ国連合軍として参加した日本が、欧米から初めて軍馬の去勢を教わったことを紹介している。また、去勢は征服民族が被征服民族に対して行うもので、日本にはそうした機会がなかったことも理由に挙げている。

確かに宦官はいなかったが、日本では仏教の普及以後、修行の妨げになるからと、雑念を取り払う意味で自らの一物を切り捨てる僧がいたようだが、これは宦官とは全く文化的な意味が違う。また最近はやりの「オカマ」は、あくまでトリックスターであり、権力の一機能を担う存在ではなかった。

古来、中国の宮廷ではたびたび宦官がはびこった。中でも清朝末期の西太后時代は、まさに宦官が権勢をふるった時代でもあった。西太后にとって、宮廷のしきたりや裏の世界に熟知した宦官は、権力維持のためには都合の良い存在であったからだ。同時に、「去勢によって失った男性機能の代償とコンプレックスは、権勢欲と金銭欲、そして食味の快楽に駆り立てる」(『中国料理の迷宮』勝見洋一)ことになったようで、西太后の美食趣味は、こうした宦官の影響に負うところも大きかったらしい。

浅田次郎原作の『蒼穹の昴』のTVドラマを見て以来、北京に行ったら西太后の居所だった頤和園に行こうと思っていた。頤和園杭州の西湖を模したところ。この湖岸に佇んでいると、ドラマの名シーンが浮かんでくる。このドラマの主役のひとりが宦官の春児で、利発な上に京劇の名手でもあった彼が西太后の寵愛を受け、立身出世の道を歩むさまが描かれて行く。

そういえば、このドラマでも食事のシーンが多かったことを思い出した。