犬も食わない包子を食べに天津を散歩する

今回の中国編は、北京在住の友人と一緒に出掛けた天津で締めくくる。
実は北京は3回目の訪問にも関わらず、天津に来たのは初めてだった。今では列車に乗ればわずか1時間という隣町である。

駅を降りた瞬間、ここはどこの国? と驚いた。目の前を流れる川の対岸の景色はヨーロッパの街並みを思わせ、川にかかる橋の向こうに高層ビルがそびえる様はさながらシカゴか?
駅前の解放北路周辺は旧租界地区だっただけに、改めて欧米の街並みを再現することにしたようだが、正直、ディズニーランドやハウステンボスのようなステレオタイプの「欧米風」には、いささかがっかりした。

そこから目抜き通りに出て、「口直し」のために、屋台街から骨董街へ抜ける。そしてお目当ての天津名物「狗不理包子」を食べに行く。天津に来たなら、ここが本店の包子を食べるのがお約束なのだそうだ。

店名の「狗不理」とは、「犬もかまわない」という意味で、それほどマズいというシャレで付けているのかと思ったが、ネットで調べたところ、こんな「真相」が・・・。

この店の創業者は父親が40歳の時の子どもで、幼少期に「狗子」と呼ばれていた。彼は無口で、包子を作るときにはほとんど言葉を発しない。そのため、お客は茶碗に個数分のお金を入れて注文し、彼は黙って個数分の包子を茶碗に入れて出したそうだ。そのため、狗子はお客にまったくかまわない、ということからこの店名になったという。

とまれ、肝心の包子は中身の具も各種あり、どれもなかなか美味。これなら、わざわざ天津に来た甲斐があるというもの。解放北路のがっかりを十分埋め合わせるに足るものだった。

ちなみに、ネット上では、この店の店員の態度が悪く、店名通り「客を無視して、かまわない」と憤慨しているブログが多かった。我々はあまり気にならなかったが、それはよほどお腹が減っていたからだろうか(笑)。

とまれ、ほぼ1カ月にわたった中国紀行はこれで終了。この秋、北京を再来する予定で、今は中国語の会話勉強にいそしむ日々である。

万里の長城を仰ぎ見ながら「農家菜」を味わう


北京から「北の離宮」として知られる招徳方面に向かって車で1時間ほど走ると、ここ数年、長城観光の穴場として知られるようになった「水長城」に到着する。ここが人気になったのは、万里の長城を眺めながら、「農家菜」といわれる農家レストランで地元のおいしい料理を味わうことができるからだ。

最近、中国でも農家レストランが人気だ。週末ともなると、ドライブがてらに都市近郊の農家レストランで食事をしたり、宿泊して畑仕事を体験したりするのがアウトドアレジャーとして定着している。北京の近郊にある農家菜として友人に紹介されたのが、この水長城にある「騰龍飯店」だった。

高台にあるこの店からは、対岸の山並みを這うように伸びる長城が一望できる。長城観光のメッカ・八達嶺だと蟻の行列のような賑わいに閉口するが、ここは人けも少ないので、のんびり観光できるのがいい。

この店の名物のひとつは、山間の清流で採れる金鱒魚という鱒の一種で、淡白なこの魚に唐辛子を振って焼いて食べるとなかなかの味わいになる。また特色豚のソーセージと、初挑戦になるロバ肉のスモークも注文した。

しかし、この店の一番のお薦めは、採れたての中国野菜の数々だ。この地方特有の明日葉に似た野菜の天ぷらや苦菜の甘酢がけは、採れたてということもあってとても美味だった。安全でおいしい野菜が食べられることは、今の中国では最高のぜいたくでもある。

そもそも20年前の中国には、野菜と言えば、トマトと白菜、じゃがいもとにんじん、トウモロコシなど、数えるほどしかなかったそうだ。北京の友人の話では、「キューリを普通に食べるようになったのは最近のこと。子どもの頃は正月にしか食べられなかった。だからキューリを食べると正月を思い出す」という。

そんな郷愁を誘うためなのか、この店のメニューにはトウモロコシのおかゆとパンがあった。トウモロコシのおかゆは、1970年代の毛沢東時代の代表的な料理で、かつてはこれでお腹を満たしていたため、中年以上の人たちには懐かしい食事なのだそうだ。

トウモロコシは当時の貴重なビタミン源。安全でおいしい野菜を食べることが農家菜の楽しみではあるが、貧しかった昔を偲び、”懐かしさ”を食べるのも、大人たちの農家菜の楽しみ方であるようだ。

頤和園で西太后の往時を偲ぶ

かねて疑問に思っていたのだが、「なぜ日本は宦官を導入しなかったのか」と。アジア、特に中国文化の及んだ朝鮮やベトナムでは宦官が取り入れられたのに、なぜ日本だけが違ったのか。そんな長年の疑問に、ようやく納得できる答えを見出した。

吉林人民出版社が発行する雑誌「日本文学」の李長声・副編集長は、09年に「古代日本が宦官制度を導入しなかった理由」という論文を発表。この論文で、李さんは「日本はさまざまな文化を中国から学んだが、宦官制度は取り入れなかった。この点は尊敬に値する」と評価している。

宦官制度を採り入れなかった理由として、日本には牧畜文化の歴史が希薄な点を挙げている。もともと「去勢」は家畜に対して行うもので、中国にかぎらず、インドやトルコなどの遊牧系民族の間では、家畜に対する去勢は一般的なものだった。李さんは、1900年の義和団事件の際に、8カ国連合軍として参加した日本が、欧米から初めて軍馬の去勢を教わったことを紹介している。また、去勢は征服民族が被征服民族に対して行うもので、日本にはそうした機会がなかったことも理由に挙げている。

確かに宦官はいなかったが、日本では仏教の普及以後、修行の妨げになるからと、雑念を取り払う意味で自らの一物を切り捨てる僧がいたようだが、これは宦官とは全く文化的な意味が違う。また最近はやりの「オカマ」は、あくまでトリックスターであり、権力の一機能を担う存在ではなかった。

古来、中国の宮廷ではたびたび宦官がはびこった。中でも清朝末期の西太后時代は、まさに宦官が権勢をふるった時代でもあった。西太后にとって、宮廷のしきたりや裏の世界に熟知した宦官は、権力維持のためには都合の良い存在であったからだ。同時に、「去勢によって失った男性機能の代償とコンプレックスは、権勢欲と金銭欲、そして食味の快楽に駆り立てる」(『中国料理の迷宮』勝見洋一)ことになったようで、西太后の美食趣味は、こうした宦官の影響に負うところも大きかったらしい。

浅田次郎原作の『蒼穹の昴』のTVドラマを見て以来、北京に行ったら西太后の居所だった頤和園に行こうと思っていた。頤和園杭州の西湖を模したところ。この湖岸に佇んでいると、ドラマの名シーンが浮かんでくる。このドラマの主役のひとりが宦官の春児で、利発な上に京劇の名手でもあった彼が西太后の寵愛を受け、立身出世の道を歩むさまが描かれて行く。

そういえば、このドラマでも食事のシーンが多かったことを思い出した。

チベットの聖地で日中の震災を悼む


右から3番目、携帯電話をしているのが、ガイドの李さん


そもそも九寨溝は、チベット族の9つの山寨(村)があったことからその名が付いた。かつては外部から容易に入郷できない秘境だったが、1970年代以降、森林伐採などを目的に漢族が入り込むとともに観光地化が進み、村の一部も開放された。瀧見学を終えた我々が、オプションで頼んだチベット族の歓迎の宴で訪ねた家も、そんな観光村の中にあった。

迎えてくれた家族が白い絹のマフラー=ハダ(哈达)を首にかけてくれる。これはチベットでの最高のおもてなしだ。またこの家の家族がラサのポタラ宮まで巡礼に行った証しでもあるそうだ。九寨溝からラサに通じる道が、チベット仏教への信仰の証しとして五体投地で進む巡礼路であることを、この時はじめて知った。

実はこの中国行きと同じ時期に、ヤン・リーピンの日本公演『蔵謎』を見に行く予定だった。ツアーガイドの李さんに聞いたが、やはり「ヤン・リーピンは、ちょうど今、九寨溝のナンバーワンの劇団員を連れて日本に行っていますよ」とのこと。今回の日本公演のテーマは、九寨溝からラサのポタラ宮へ巡礼に行く老婆を主役にした信仰の物語だっただけに、ぜひ見たかった。まして、彼女自身は中国では踊らないと宣言しており、踊る姿は日本でしか見られなかったのに・・・。

残念な気持ちを抱えて、その夜は「二番目にうまい劇団」のステージを見に行った。それでも、チベット文化を凝縮した歌や踊りを楽しむことができた。選りすぐりのメンバーだけに、みな長身かつイケメンや美女ばかりで、彼らが跳ね飛ぶ姿に魅了された。

ところで、今回、中国に出かけたのは、東日本大震災の直後。それだけに、ガイドの李さんに日本の地震のことを尋ねられた。なぜ彼がそんな話を聞くかと思ったら、彼自身が08年5月12日に起きた四川大地震の被災者だったのだ。

四川大地震はこの九寨溝も襲った。当時、彼は32人のツアー客を連れてバスで移動中だったが、地震直後に巨大な岩がバスをめがけて襲い掛かり、乗客の大半が即死。生き残ったのは彼も含めてわずか9人だった。肩に傷を負いながら、李さんは残った乗客を誘導して近くの村に逃げ、なんとか無事に生還できたという。しかし問題はそれから。

地震の影響で仕事はなくなり、結婚する予定だった彼女とも別れてしまい、一緒に住むはずだった家の借金だけが残った。人生に絶望し、どうしようかと思い迷ううちに、いつしかチベット仏教に惹かれはじめ、救いを得ることができた。その後、チベット人の女性と出逢い、近く結婚する予定です。新たな人生を始められたのもチベット仏教のおかげです。彼女? 今夜のステージに出演していますよ」

地震という災害が機縁となった別れもあり、また出会いもある。しかし、「人生の救い」を得られたこの奇蹟は、この地ならではのエピソードとも思えた。

天駆ける「神の瀧」に命水を授かる

龍にサンズイを付けると「瀧」になる。古来、瀧は龍の棲みかと言われてきたが、仙境・九寨溝こそ、「神の瀧」が流れる聖地であった。

九寨溝には100以上の湖とともに、17もの滝がある。中でも、幅310mの珍珠灘瀑布や、同じく320mという幅広の諾日朗瀑布が有名だ。いわば中国版ナイアガラ。確かにそれも滝の美しさのひとつではあるが、滝マニアとしての触手が動いたのは九寨溝の入り口に近い「樹正瀑布」の方だった。

滝口の幅は62mと、前2者よりは狭い。高さも11mと平凡だ。しかし、噴き出す水の勢いや流れる水の流量はすさまじい。そして、滝から流れ落ちた水が一気に横に広がり、本流とは別に岩の下をくぐって幾筋にもなり、それが幾層にも連なって再び川に流れこんで来る。まさに龍が天駆けるようなうねりを見せる姿。こんな滝を見たのは初めてだった。

急峻な川が多い日本では、那智や華厳のような直下型が多く、滝の幅より、落下高を競うところがある。この逆に、最近は白糸の滝や原尻の滝(大分)のような幅広の滝が人気だ。これがナイアガラ型。樹正瀑布は高さも幅も大したことはない。しかし、滝から落ちた水流が複層型になって暴れて流れるところに妙味がある。あえて言えば「氾濫型」。これが暴れる龍をイメージさせるのだ。

滝の良し悪しは、さらに「音」と「飛沫」にある。滝が近づくにつれ、聞こえてくる瀑音が気持ちを高め、期待感を煽る。樹正瀑布は、滝の音だけでなく、流れゆく水流も心地よく響く。そして滝つぼに近づくと飛び散る飛沫。マイナスイオンをいっぱいに浴びると、命水を授かったように鋭気が上がる。まさに瀧の恩恵をすべて体験できるのが、この樹正瀑布であった。

この瀧の雄姿はビデオに撮って帰ってきた。今年の夏は、エアコン代わりにこの瀧の音を聞いて過ごそうと思っている。

幻のパンダを求めて雪の九寨溝を行く


4月の九寨溝はまだ雪景色だった。ベストシーズンは秋の紅葉というが、雪を冠った山間に浮かぶ湖面を見ていると、むしろこんな風景を見られた偶然に感謝したくなる。まさに雪の九寨溝は、この世の景色とは思えない美しさだった。

九寨溝には100を超える湖がある。この地に暮らすチベット族の伝説では、高山に住む男神ダゴが愛する女神ショモに宝鏡を贈ったとき、悪魔のいたずらで女神が宝鏡を砕いてしまい、そのかけらが下界に飛び散って九寨溝の湖になったのだという。

観光バスの終点で降り、九寨溝の西南・日則溝景区の雪道を歩く。しばらくすると、「熊猫海(パンダ海)」に着く。この湖の名は、かつてパンダがこの湖面まで水を飲みに降りてきたことに由来する、という話が広く流布されている。ところが、我々を案内してくれたガイド歴16年の李さんは、こんなエピソードを打ち明けてくれた。

九寨溝は1970年代に国を挙げて森林伐採を進めていた時に発見されました。しかし、これによってチベット族の聖地として守られてきた九寨溝の自然がどんどん荒れていったのです。それを見過ごせないと思った環境庁の役人が一計を案じました。ここにパンダが棲息しているとわかれば、森林伐採は止まるはずだと。彼の気転が功を奏し、その後、九寨溝の自然保護が叫ばれ、ついに1992年に世界遺産に指定されたのです」。

どんな案内文を見ても、「かつてこの湖で水を飲むパンダが目撃されたが、今は見ることができなくなった」と紹介されている。なるほど、実はこんな裏話があったとは・・・。確かに自然保護団体がよく使う手ではあるが、誰も実際にパンダを見た人がいないのだから、これは神話として語り継がれていけばいい話かもしれない。

この湖ではチベット族の貴族の衣装を借りて写真撮影をしてくれる。1回200元。せっかくだから、記念に王様の衣装を借りた。「幻のパンダ」に敬意を表して。

杜甫を偲んで草堂で白酒を呷る

浣花渓水水西頭
主人為卜林塘幽
已知出郭少塵事
更有澄江銷客愁
無数蜻蛉斉上下
一双鸂鶒対沈浮
東行万里堪乗興
須向山陰入小舟
(杜甫「卜居」)

この七言律詩は、安禄山の乱を逃れて流浪していた杜甫が、ようやくたどり着いた成都で「卜居」=居を定めた時に詠んだ詩である。この時期、都の長安では飢饉が続き、兵乱も鎮まっていなかったため、民心が落ちついていた成都でひと時の平安を迎えることができたのだろう。この詩には、新生活に対する喜びとともに、周辺の山々へ出かけたいと思う楽しみが歌われている。

浣花渓とは、成都の西を流れる錦江の上流にあたり、このほとりに茅葺の庵を建て、浣花草堂と名付けた。これが今の「杜甫草堂」にあたる。杜甫はここで4年暮らし、240編以上の詩を遺したそうだ。

武侯祠がいささか俗に流れて、観光化し過ぎた嫌いがあったのに対し、杜甫草堂には静けさが支配し、落ち着いた庭園の中をゆっくり散策することができた。庭園の中ほどにある池のほとりに、杜甫が暮らした当時を再現した茅屋があった。人家というより馬小屋のような粗末な庵で、土間の上に素朴な机や椅子がぽつねんと置かれていた。この屋内を見ていると、質素でストイックな詩作活動を行っていたことが偲ばれ、しばし立ち去り難い感興があった。私は鷹揚で軽妙な李白の詩の方が好きだが、この庵を見て以来、杜甫への共感を抱くようになった。

杜甫は中国人はもちろん、世界で最も愛された詩人のひとりだろう。彼を慕って、世界中から多くの人々がこの草堂を訪れてくる。資料室には、毛沢東をはじめ、創生期の共産党幹部のほか、彼らに伴われてきた各国要人の写真が展示されていた。まさに杜甫は中国の宝なのだ・・・ただし、唯一、日本人の写真はなかった。いささか残念な扱いとは思ったが、ここは杜甫に免じて素通りすることにした。

時折、竹林に雨が滴っては止むのも一興。適度な湿り気に誘われ、喉を潤したくなった。ちょうど目の前の土産物屋で、カメに入った白酒を試飲させていたので、一杯所望する。この白酒、名前は「杜甫」という。杜甫に縁付くものが欲しかったので、小さな瓶を購入した。帰国後、一人酒を楽しもうと思って開けてみたら、フタが緩んでいたのか、いくらか漏れていたらしい。道中、杜甫がこっそり飲んでいたのかもしれない。