救国の英雄・李舜臣が見た海へ。(前篇)


釜山から西部方面へバスで2時間ほど走ると、名将・李舜臣(イ・スンシン)の水軍が本拠地とした統営(トンニョン)市に着く。最初に行ったのは市の東側、東湖湾を見下ろす丘の上に、李舜臣の巨大な石像が建つ記念公園だ。ここに屹立する李将軍の姿は凛凛しかった。彼の見ている目の前の海の美しさに、しばし時間を忘れた。


この海の周辺はいわゆる多島海で、ここも含めて、リアス式海岸となる朝鮮半島南岸全域に渡って、数百の島々が浮かんでいる。島々の内側は静かな漁場だが、一歩外に出れば風涛激しい玄界灘へとつながる。そしてこの海域こそ、李舜臣率いる朝鮮水軍と秀吉の朝鮮出兵軍が戦った戦場でもあった。


李舜臣は日本の教科書では名前が出てくる程度の紹介しかされないが、韓国では救国の英雄として知らぬもののない存在だ。ソウル市内にも像があるが、釜山をはじめ、韓国南部には至る所に彼の像や記念碑が建っている。中でも、彼の勇名を轟かせた「閑山大捷」=閑山島(ハンサンド)の戦い、がここを舞台にしたため、戦勝を記念した閑山島に建てられた「制勝堂」に立ち寄るのが観光コースになっている。


ここは歴史のおさらいになるが、秀吉の朝鮮出兵は1592年4月の釜山急襲から始まり95年で休戦する「文禄の役」と、1597年に再開し、秀吉が死去したことで停戦となる98年までの「慶長の役」の2回の「出兵」を指している。日本の歴史では、「出兵」といい、「侵略」と言わないのは、当初の秀吉の構想が「唐入り」、つまり明の侵略が目的で、その途中で、朝鮮に「道を借りる」ために「出兵」したという事情による。もちろん、これは日本側の理屈で、朝鮮側からすれば、当初の交渉が決裂し、実際に武力進出をしてきたのだから、これは侵略だ、となるのは当然だ。実際、二度目の慶長の役は、明らかに「侵略」行為なのだから。


最初の文禄の役は、先陣を切った小西行長軍と第二陣の加藤清正軍が釜山上陸後、あっと言う間にソウルまで制圧。日本軍は鉄砲で武装、片や朝鮮軍は弓矢が主体で、火気と言えば威圧が目的の大砲だけ。陸上戦では圧倒的に日本軍の力が勝った。朝鮮王朝は第14代の宣祖の治世下だが、無能な王様だったこともあり、なんら打つ手もなく、自ら中国国境地区まで逃げて明に助けを請うた。そこで登場するのが李舜臣将軍だ。


陸上戦では日本軍が圧倒していたが、泣き所は軍事物資の調達先である日本との海上ルートだ。制海権を取られたら、日本軍は孤立する・・・そんな、その後の死命を制する分岐点にもなりうる海戦となったのが、この「閑山島の戦い」だといわれている。


ここからは韓国側の記事をもとに解説する。

李将軍は、釜山から西に抜けるルートである閑山島と巨済島(コジェド)の狭い海域を決戦場に設定。おとりを使って日本軍をここに引き込んだ。待ち受ける李軍団は鶴翼の陣を敷いた。陸戦では鶴翼の陣は軍勢が多い敵が少ない相手を囲い込んで殲滅する戦法だが、李軍と日本側・脇坂安治軍との勢力はほぼ五分と五分(90隻対73隻)。果たして戦法上、正しいかは疑問と日本軍は甘く見た。しかし、李軍の軍船は大砲を積み込み、船の破壊・沈没を目的とした。だからこそ、鶴翼の陣で日本軍を囲い込み、両側から大砲で打ちかかったのだ。結果は73隻中、47隻を沈め、12隻を捕獲するという、李軍の大勝利となった・・・。


・・・この旅一番の快晴となったこの日、遊覧船ターミナルから閑山島に渡った。船内は学生グループから中年夫婦や老人と幅広かったが、日本人は私ひとり。釜山でも、慶州でも、観光案内には日本語があったのに、ここではハングルと英語のみ。日本人は来ないのか、それとも日本語の表記はあえてしなかったのか・・・。


大勝利を記念して建てられた「制勝堂」は、李将軍の指令室の置かれた場所であり、韓国人の誇るべき聖地だ。そして、統営市では、今年も第二次世界大戦終戦記念日に、「閑山大捷」の戦勝記念祭が合わせて行われる。つまり、「軍神」李舜臣将軍は、対日本との抗争に勝利したシンボル的存在なのである。