救国の英雄・李舜臣が見た海へ。(後編)


「一揮掃討 血染山河」

李舜臣の戦いの跡をたどろうと思ったのは、韓国時代劇「不滅の李舜臣」を見たのがきっかけだった。22戦して22勝、不敗の名将と称えられた彼は、負ける戦をしなかったこともあるが、陸上戦で負けまくった朝鮮軍が息を吹き返すきっかけとなり、海を制して救国の英雄となった。制海権を奪われた日本軍は食糧不足に悩まされ、現地調達するために米どころの全羅道に進出したが、義兵の決起にあって苦戦、徐々に撤退に向かった・・・というのがドラマはもちろん、これまでの私の理解だった。しかし、どうも事情が幾分異なる見解を知った。


Wikipedia李舜臣の功績をめぐって激しいやり取りがあったのをご存じの方も多いだろう。今でもその論争(?)の跡が残っていたので、じっくり読んだのだが、韓国びいきの私が読んでも、李将軍を「救国の英雄」と信奉する韓国人の感情的な意見に対し、yasumi氏の冷静な反論に軍配を上げざるを得ない。その一番の解釈の違いが「制海権」問題だ。


あの井沢元彦の「逆説の日本史」でさえ、「日本軍は制海権を失ったことで食糧不足となり・・」としているのに、yasumi氏は「日本軍は制海権を失くしていなかった」と明言している。これを読んで、はたと納得した。確かに、「閑山島の戦い」での惨敗後も、日本水軍は何度も李将軍に苦杯をなめるのだが、実は李将軍は途中で皇帝の命令に従わなかったことを問われて「白衣従軍」(=ただの兵士に降格されること)になり、その代わりに水軍を率いた元均が日本軍に大敗し、朝鮮水軍はほぼ壊滅してしまう。ここから李将軍の奇跡の復活劇となるのだが、この経緯を素直に解釈すれば、日本水軍はむしろ優勢に転じ、少なくとも朝鮮半島南部の右半分の制海権は日本が持っていたのは間違いない。


また、井沢氏によると、日本軍の敗退の原因は、ロシア侵攻の際に、冬将軍に敗れたナポレオンのように、武装軽微のために、朝鮮半島の厳寒によって凍死や飢餓で死んだ兵士が戦闘で死んだものをはるかに上回っていたという。ましてや、先発隊の小西行長宗義智はともに和戦派で、和平の裏交渉をするなど、戦争そのものに否定的だったのだ。


秀吉の朝鮮出兵については、日本と韓国の間にかなりの認識の違いが見える。必要以上に秀吉は悪者にされ、また李将軍は過剰に祀り上げられている・・・。いささか専門的になってくるので、関心のある人は、ぜひ詳細に分析しているYasoshimaさんのHP
http://yasoshima.hp.infoseek.co.jp/index.html#4-6を読まれたらいいだろう。


それにしても、当時の朝鮮王朝にあって、唯一、腐敗(賄賂を取らず、正しい人事を行ったという意味)していなかった役人・軍人が李舜臣と言われ、そのために讒言や中傷が絶えず、挙句に左遷や降格などの災難に見舞われるなど、波乱万丈の人生を送ったという。その点からして、英雄たる資格は十分にあると言えるだろう。


さて、統営市で李将軍に別れを告げ、いよいよ韓国旅行も終わりとなる。ドラマをきっかけに始まった日朝歴史巡礼は、今後も続けるつもりだ。今度はかみさんとソウル−済州島を回る予定。次回の韓国レポートを期待してください。