韓国の仏像は金ピカで美しかった!?


釜山の北、地下鉄の最終駅のひとつ手前にある「梵魚寺(ボモサ)」まで出かけた。ここから韓国でも有数の禅寺へ参拝するのだが、周辺の山々への登山口でもあり、初詣での参拝客に混じって、登山客の姿も多かった。朝鮮王朝が廃仏毀釈政策により仏教を抑圧したため、韓国の仏教寺院はたいがい山の上にあるが、ここ梵魚寺も同様。バスはあったが、駅から1時間近く山道を歩くこととなった。


日本の仏教が中国から百済経由で伝わったことはよく知られている。その百済は660年に新羅に滅ぼされ、滅んだ百済から王族も含め数千人単位の人たちが日本に渡った。水谷千秋氏の書いた「謎の渡来人 秦氏」によると、百済新羅を中心とした朝鮮半島からの渡来人集団は、6世紀当時の日本の人口の約5%、約17万人近くにも及び、特に聖徳太子のブレーンのひとりであった秦河勝に代表される秦氏一族は、仏教文化はもちろん、土木や機織、酒作りなどの技術面でも貢献。日本の原点である「ものづくり」の基礎を作ったともいう。ちなみに、芸能の創始者とも言われ、舞踊なども秦氏が伝えたという伝承がある。その子孫を自称したのが能の大成者である世阿弥なのだそうだ・・・・。


正直、渡来人文化がどこまで日本に浸透したかは不明だ。しかし、6〜7世紀の東アジアは激動の時代。中国では618年に隋から唐に王朝が交代し、唐は朝鮮半島に触手を動かす。その唐と連合を組んだ新羅が676年に百済に続き高句麗も滅ぼし、ついに朝鮮半島を統一するなど、政治的に大きな変革が起きている。この頃、日本も645年に「大化の改新」があり、663年には「白村江の戦」で、百済を助け、唐・新羅の連合軍と戦い、敗北するのだが、これ以後、日本は東アジアの国際舞台から撤退せざるを得なくなる。しかし、この間に渡来人(主に政治亡命者や難民)がもたらした文化や技術が日本に大きな影響を与えたのは確かであり、特に仏教は最新知識の最たるものだったのは想像に難くない。


・・・さて、ようやくたどり着いた梵魚寺の本堂には金ピカの仏像が安置され、堂内は礼拝するおばさまたちで大変な賑わいだった。礼拝方法も、日本のようにいくばくかのお賽銭をあげて、ただ祈るだけなんて簡単なものではない。お米の寄進、それも10kg位の米袋を供物として奉納。お祈りも、跪いては立ち上がり、拝んでは跪く、という動作を何度も繰り替えす。その熱意には感心した。しかし、本堂を出て、となりの地蔵堂を覗いてのけぞった・・・ここはタイガーバームガーデンか!!! 正直言って、これには閉口した。本堂での敬虔な祈りとこの俗物趣味が同居するいかがわしさは、日本では考えられない。この日は韓国での不思議な初詣体験となった。