対馬には、出雲より「神」ががったにおいがする。


翌日は、朝早くから島内をドライブする。真っ先に向かったのは南端の豆酘(つつ)。北九州と面と向かった、かつて日本から一番近い寄港地でもあった。若手の歴史家として注目される黒田智氏の書いた「なぜ対馬は円く描かれたのか」によると、この周辺は”避難所”を意味する「アジール」という聖地で、どんな罪を犯した人間でも、ここに来ると罪を赦免されるというミステリアスゾーンだという。ここでは絶対に落し物は拾ってはいけないそうだ。数多い奇祭が今でも行われ、周辺には神社も多い。


豆酘は、元は「卒土(そと)浜」とも言われた。卒土(そと)とは、内と外、つまり、内(この場合の内は日本本土の意味か)に対する周縁、または辺境のことであり、そこは「神」が支配する不可侵な聖域だ。卒土は、古代朝鮮の蘇塗(そと)が伝播したものではないかといわれ、ここにも朝鮮半島の影響が見て取れる。井上秀雄氏の著書「古代朝鮮」によると、蘇塗は古代社会に見られるアジールで、日本の近世に存在したかけこみ寺のようなもの。「法制的または儒教的な善悪感が支配する中国では反社会的と判断され、理解されないが、農村共同体の秩序維持を第一義とする韓族の善悪の基準に合致している」、と言う。つまり、朝鮮民族の、「罪は憎んでも人は憎まず」的な集団意識が、日本の農村文化の善悪感と相通ずるものがあるということなのだろう。


対馬の最南端にあり、玄界灘に突き出した豆酘崎を回った。この日は激しい突風が吹き荒れ、海の色もどこか神秘的で、長くいるのが躊躇われた。


さらにここから島の中央に口を開く浅茅湾(あそうわん)を目指す。南北82km、東西18kmという細長い対馬の中心部はくびれ、溺れ谷と言われる入り江が無数にある。湾全体を見渡せる烏帽子岳頂上まで上ったが、ここから一望した景色は、さながら松島のような美しさで、多島海であることがわかる。かつて対馬の東と西の海はつながっておらず、陸地の狭くなった狭隘の地である大船越、小船越(ふなこし)という2つの場所で、船を陸揚げして、対岸まで引っ張り、船を渡していたそうだが、今は大船越は掘削され、両岸は運河でつながった。さらに、日露戦争を控えて、日本海軍がこの湾を軍事拠点に設定、そのために軍艦が通れる海路を作るため、新たにこの二つの船越の中間地区を掘削し、万関橋という大きな橋も渡してしまった。日露戦争といえば、当時の海軍の長は東郷平八郎であり、参謀・秋山真之がこれを策したのは間違いない。


烏帽子岳の麓に、宮島の厳島神社のように、海の中に鳥居のある「和多都美(わだづみ)神社」(写真参照)があった。かつて「わだつみのいろこの宮」という青木繁の絵を見に久留米まで行ったことがあるが、ここはまさにその絵のモチーフが神社になったようなところ。さらに北に上がると、木坂海神神社がある。ここは文字通り海の神様を祀ったところ。時期はずれの寒い冬だけに、訪れる人もいないのだが、境内や石段はよく手入れされていた。とはいえ、昼間でないと、一人で参拝するのは気が引けるような、森の中の神社である。この2つの神社ともに、由緒ありげで、対馬という島自体が出雲のように神格化された土地であることを思わせる。


この日は、晴れていればわずか50km先にあるはずの対岸の釜山が遠望できるという展望台まで行ったが、さすがに天気が悪く何も見えない。いよいよ明日は釜山へ向かう。