玄界灘はまたまた雨、それも暴風雨だった。



朝、5時半に目覚める。前夜は10時に寝たので、早く起きるのも当然だ。しかし、外は雨、そして風も強い。今日は1日、たっぷりと島内観光をしたかったのに、嫌な天気だ。朝飯をかっこみ、朝市で知られる北端の勝本へ。しかし、この天気では朝市は無理だろうと、港を見て回る。かつては朝鮮渡海の玄関口だったこの港も、今はイカ釣り漁船が港を埋めている。しかし、さすがに誰もいない。港を一回りして帰ってきたら、早くもジャンパーもジーンズもびしょ濡れに。今日は最悪だな。


港の近くに、神功皇后朝鮮出兵の拠点としたと言い伝えられる場所に、「聖母宮」という神社が建っていた。この皇后の朝鮮出兵は「神話」的なイリュージョンと言われているが、その伝説的な「戦勝」の縁起をかって、秀吉の朝鮮侵略時に、加藤清正が立ち寄り戦勝祈願したという。ここが神社巡りの第一歩で、以後、島内各所に鎮座する神社を回る羽目に。天照大神の弟である月読命を祀った月読神社、一の宮の天手長男神社、もちろん海の守り神である住吉神社(写真参照)などなど。司馬氏曰く、壱岐対馬は日本神道の聖地で、大陸発祥の「占い」を生業とする氏族である、卜部姓が多いそうだ。


風雨は激しさを増し、参拝のたびに差していた折りたたみ傘が使いものにならなくなる。途中からレンタカーから降りず、クルマの中から本堂を拝むだけになった。壱岐は思いのほか小さい島のため、この調子なら半日あればクルマで十分回れてしまう。今夜の宿である空港近くの石田町に向かう。ここは「電力の鬼」と言われた松永安左衛門の生地。跡地が記念館になっていたので立ち寄った。


松永安左衛門福沢諭吉の弟子のひとりで、娘婿の福沢桃介とともに、明治時代の産業育成に尽力。博多での路面電車の開業を契機に電力事業に乗り出し、日本の電力事業の基礎を築いた偉人である。第二次大戦の直前、電力事業が国有化されるのに嫌気が差し、一度リタイヤするものの、戦後、70歳を過ぎて復活。戦後復興の立役者となった。記念館を訪れた時は誰も見学者がいなかったこともあり、館長自ら案内してくれた。壱岐が生んだ最高の偉人に対する尊敬の念がひしひしと伝わる。入り口隅に置かれたガラスケースに、電力中央研究所時代にまとめた調査部のレポート10数冊が展示されていた。「今から50年以上も前に、東京湾横断道路の建設や原子力政策などの国家的プロジェクトを提案していた。そんな先見性と国家的な観点からの発想を持った事業家は今や皆無です」。これは国際的な海の交差点・壱岐で生まれた人間ならではのグローバルな発想と倭寇ゆずりの度胸の良さの賜物なのかもしれない。


空港近くの民宿に投宿。建屋は風できしむほど貧弱なものだったが、この日の晩飯は豪華だった(写真参照)。脂肪分の少ない壱岐牛のうまさはなかなかのもの。タイのカブト蒸しもおいしくいただきました。